映画『ばるぼら』の手塚治虫原作コミックを読んでみた。耽美小説家・稲垣吾郎と謎の女・二階堂ふみ共演!

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(C) Barbara Film Committee

マンガ界の巨匠・手塚治虫原作の『ばるぼら』が、息子の手塚眞監督の手によって映像化、10月28日から開催される第32回東京国際映画祭のコンペティション部門に選出された。

同作は、1973年から「ビッグコミック」(小学館)で連載され、タイトルの「ばるぼら」という名前を持つ謎の女に二階堂ふみ、そのばるぼらと奇妙な関係になっていく流行作家・美倉洋介に稲垣吾郎を配し、美しくも怪しい作品に仕上がっている。

さらにその映像美を彩るのは、撮影監督を務めたクリストファー・ドイル。1990年代、日本でもヒットしたウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』『天使の涙』などの撮影で知られる、ドイルならではの鮮やかな色使いが際立つ。

そんな話題の原作は、手塚治虫によって、どのように描かれているのか、読んでみた。

稲垣吾郎演じる作家・美倉洋介は、新宿駅で……

物語は、耽美主義をかざし、文壇の寵児となった売れっ子小説家・美倉洋介(みくらようすけ)の一人称ではじまる。
「私」こと美倉が、不思議な女・ばるぼらと出会ったのは新宿駅。柱のかげに座っていたばるぼらを見かけ、気分が悪いのかと、親切にも美倉は、ばるぼらを医務室へ連れて行ってやる。だが、ばるぼらはアルコール中毒者で、医務室の「常連」だとわかり、医務室を追い出されてしまう。
これをきっかけに、美倉はばるぼらを自宅に連れ帰り、世話をしてやることになる。
美倉は、流行作家として地位も名誉も持つ男だが、一方のばるぼらは、大酒飲みで怠惰。
一見真逆のふたりだが、だんだんとばるぼらは、美倉の創作意欲をかきたてる女神(ミューズ)のような存在となり、奇妙な関係が続いていく。
そして、美倉の作家生命を脅かすほどの、自身の致命的な欠陥が表沙汰になるにつれ、やがてばるぼらの正体も明らかになっていくのだが……。

1973年のリアルな日本を象徴する「排泄物のような女」ばるぼら

ここで注目したいのは、前述のように、本作の連載が開始したのが、1973年というところだ。
冒頭から、新宿駅の物陰にうずくまるばるぼらが登場するが、美倉のモノローグはこうはじまっている。

都会が何千万という人間をのみ込んで消化し……
たれ流した排泄物のような女――それがばるぼら

――『ばるぼら』より

さらに、ばるぼらの背後には、「順法斗争中」と書かれたプラカードを持つ人々が描かれている。
「順法斗争中」とは、おそらく「順法闘争中」と同義で、日本では公務員が起こすストライキといっていいだろう。

1973年当時、現在のJRは、日本国有鉄道(国鉄)が運営する公的事業で、そこで働く労働者はもれなく公務員とされていた。だが、公務員は、ストライキ権が剥奪されているため、あえて本来の業務を行なわずに(鉄道の場合は、電車を運転しないなど)、ストライキと同等の効果を狙ったとされている。
つまりばるぼらの背後では、新宿駅構内で、国鉄職員によるストライキが行なわれていることを意味するのだ。

いまでこそ、国鉄は民営化されたため、公務員のストライキまがいなものは見かけなくなった。だが、ある意味、1973年代の日本は、公僕たる公務員が権利を主張する、すなわち全体よりも個人を尊重する風潮が台頭しだした時代なのかもしれない。

その個人が、何万人と消費をくり返しくり返し、たれ流した「排泄物」の象徴として、ばるぼらは描かれている。ばるぼらがホームレスのような風貌なのは、そのためだとも考えられるだろう。

そして、その排泄物を拾ったのが、人々に消費され続け、一時は時代の寵児になったとしても、ヒット作に恵まれなければ消費すらされない「流行作家」の美倉なのは、「循環」のような因縁めいた意味を感じるのは、勘ぐりすぎだろうか。

1973年はオカルトブーム。ばるぼらの正体もそれに倣った?

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引用:https://2019.tiff-jp.net/ja/lineup/film/32CMP12

さらに1973年は、小松左京の『日本沈没』(光文社)、五島勉の『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)が発行され、大ベストセラーになった。
小松の『日本沈没』は、『ばるぼら』原作にも登場するが、そうしたことからも、当時の手塚治虫がかなり意識していたのは間違いない。
『日本沈没』は、タイトル通り、日本全土が海に沈む結末を迎えるSF小説であり、『ノストラダムスの大予言』は、1500年代に活躍したフランス人医師・占星術家のノストラダムスが残した「1999年に人類は滅亡する」という予言を記した本だ。

ホームレスのようなばるぼらでも、美倉の創作意欲を刺激するのは、ばるぼらが芸術家を愛する女神だからだ、といった描写が原作には見受けられる。のちにばるぼらの本当の姿がつまびらかになる時、まさにオカルトの集大成ともいえる圧巻のシーンが登場するのだ。
それは、デジタル原稿ではなく、手描きの時代に、緻密におどろおどろしく描かれている。
本作の映像化は不可能だとされてきたと聞くが、おそらくこのリアルで底知れぬ恐怖をかきたてる場面を映像にするのが、一番難しかったのだろう。

こうした社会的背景もあってか、ばるぼらは神出鬼没のオカルト的な存在として描かれる。本当に人間の女なのか、女神なのか、ホームレスのようなアルコール中毒者なのか、読者はわからないまま、底知れぬ恐怖をかきたてられる怪奇なストーリーに引き込まれていく。
二階堂ふみは、このばるぼらの超自然的な在り方の表現に、一番頭を悩ませたのではないだろうか。
ちなみに、美倉役を演じる稲垣吾郎は、奇しくも1973年生まれだとか。
作品全体が、奇妙なつながりで複雑にからみあい、恐怖がつきまとう幻想的な仕上がりになっている気がしてならない。

『ばるぼら』公式サイト

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